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2005年10月31日 (月)

母校に対する思いあれこれ

もう2~3年前になるでしょうか。小学生だった娘が中学受験を控えていた頃、15年近くごぶさたしていた生田の地を訪れました。私はその生田の山の中で寮生活もしてましたので、住んでいたところでもあったのです。でも中学棟には入ったことがなかったし、知っている先生もいませんでしたから、ただ見たことのある学校というかんじ。娘がいたので寮へも行かなかったため、その時は懐かしさというものは特に感じませんでした。

dormitory.jpg私は附属高校時代、充実した学生生活を送り、親友と巡り会えたとは思っていたものの、寮生活(左写真)の厳しさやクラブで自分の実力の限界を感じて、それなりにストレスを感じていました。また大学時代は、「こんな旧式な実験や形式的な授業ばかりで、とても理系の学部を出たとは言えない…」と思い上がった感想を持っていました。今思えば、先端技術にふれるには自分たちの実力が伴っていなかったからだと良くわかりますが、いかに自分が何も知らなかったか、ということですね。そんなこともあり、自分で選んだ道だから納得していたものの、娘を中学から受験させようという気は全く持ち合わせていなかったのです。

college.jpgでも昨日は違いました。自分が朝から晩まで過ごした地で、後輩がこんなに頑張っている…。そんな様子を見れたのが、単純にうれしかったんです。大変だったけど今時珍しい体験をしたと思える寮の中を見て、思わず20年前と同じように「ただいま帰りました」と言いたくなるくらい懐かしかったし、迷路のような校舎の渡り廊下においてあるピアノで、朝早く皆が登校する前に練習したなとか、次々と思い出が頭を駆け巡っていました。20年近くたってやっと、いろんな思いを超えて母校の良さを実感したというか…。大学4年の教育実習で帰ってきた時も、お姉さんのように慕ってくれた生徒たちと、最後に皆で写真を撮ったことも思い出しました。右の写真は目白より移転してきた大学です。新入寮生歓迎会でおばけやしきとして使っていた古びた教員住宅は、今では小ぎれいな一角になっていました。

受付の子に「制服になったの?」と聞いた時に、いろいろ話をしてくれたのも印象良かったし、行きも帰りも中央線の人身事故で大変だったけれど、やっぱり行って良かったと思いました。学生時代はいろいろ悩みも多いけれど、それも長い人生の中から見れば一つの宝物。生き生きと学生生活を送っている後輩たちに素直にエールを送りたい、そう思った一日でした。

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武蔵野☆徒然日記」カテゴリの記事

コメント

うちの学校は、「テクニック」はほとんど教えてくれなかった。
就職を有利に運ぶためのアピール方法とか、
古文を読むための文語文法とか、
つぶしの利く資格のたぐいを勧めるとか。

そのかわりに、自分で物事を組み立てる楽しさ、そのために必要な粘りといった、「自立そのもの」を与えてくれたかな。

何かにつけて、発表の機会も多い学校だったね。
発表度胸がつくというメリット以上に、発表を聞くことで他人のユニークな発想にふれて、発奮することができた。共感や反発、個性的な人への憧憬も生まれた。

社会に出てから出会う友の物足りなかったこと!

うちは夫の仕事の関係で、中学以下から私立に入れることはできないけど、高校から入ってくれたらひそかにうれしい。強制はしないけど。

ほんとうにその通りだと思う…。
たまたま先日雑誌を見ていたら、女性の社長を分析という記事が載っていて、大企業の役員は国立大学とかの高学歴の方が多いんだけど、それ以下の企業ではうちの学校卒の社長が一番多かったの。これって自立というか起業しているってことよね(^^;

受験にしばられず、多方面の知識にふれる機会があったことも感謝しているわ。私は理系で漢文や倫社に苦しめられたけど、それ以上に、文系の人が数Ⅲをするのは大変だっただろうけどね…(^^;

なんと正反対な!
私は漢文や倫社がないと生きてる価値なかったわ。
女性社長の輩出数がとても多いのは知ってた。
あと、建築現場なんかでもならしてるみたい。建築士の男友達に「変わった奴、妙に頑張るんで目立つ奴、おたくの学校卒が多いよね〜」と言われた。

重機の免許を取って、自宅のログハウスを作った人は知ってる…>まつ○

なにげなく「OH*TAKARAZUKA」で検索してたどり着き、古い記事にコメントさせていただいてます。
「OH*TAKARAZUKA」創設メンバーの1人で、楓寮の卒寮生です。ひょっとしてお会いしてるかもしれませんね・・・。

>れべっかさま

初めまして!コメントくださって、とてもうれしいです

高校時代、クラスにタカラヅカの好きな人がいたんですけれど、門限18時台で、仕送りの貧しい生活(笑)の私には別世界でした その頃この研究グループがあったら、きっとはまっただろうなぁ~って思います。自分はコーラス部の伴奏が主だったので、サウンドオブミュージックの服装でちょっと踊って歌うのがせいぜいでしたけどね!(笑)

私は1987年に附属高校へ教育実習で戻り、物理を教えていました。もしかしたら、その頃お会いしたのかしら…ね コメントを、本当にありがとうございました。

雪穂さま
お返事ありがとうございます。寮はちょうど入れ違いのようですね。調理のK取さんの胡椒の利いたサラダ、懐かしくないですか?(笑)
私は週末ごとに祖父母の家に泊まり、東京宝塚劇場の一番安い席で観劇していました。
研Gは私達が高3だった1986年に作り、翌年はなくなってしまいました。丁度その年に教育実習に行かれたのですね。当時1年生のTさんという方が男役として活躍してくれたのですが、彼女が高3になった時に研Gが復活したと聞いています。(Tさんはその後、劇団四季で活躍されました。)
大学を出て数年後に高校の同窓会があった時、当時の担任の先生から「OH*TAKARAZUKA」が続いていて、しかもすごいことになっていると聞き、驚きました。当時は本当に手作り感溢れる小さな研Gでしたから!豪華でレベルが高いという舞台を、いつかは見に行きたいと思っているのですが・・・。

>れべっかさま

はい、そのコショウたっぷりドレッシングのサラダ、1日おきくらいに出てましたよね。私はマヨネーズとイタリアンしかない生サラダより好きだったけれど、胡椒の量を減らしてくれと嘆願していた人もいたなぁ…

私は、用務員さんと見間違う生物の先生が3年間担任で、今でも毎年のようにクラス会があります。今でもこの地で講師をしている人もいるので、そのレベルの高さなどはよく聞くんですよ。本当に他の研Gとは別格のようです

それにしても、入れ違いの寮生とは…その学年には、高2から帰国子女編入で入った妹がいるんです。もしかしたらご存知…?

あ、あはは~・・・(汗)

>1987年に附属高校へ教育実習で戻り、物理を教えていました

これを読んだときに思い当たる人が1人・・・というか1人しか知らないのですが、やはりCさまでしたか。
もちろん、妹さんのことはよーく知ってます(大変お世話になりました)。Cさまとも何度もお会いしてます。大学のサークルも同じですし、ご実家に泊めていただいたこともあります。妹さんとは今でも年賀状のやり取りはしています。

ホントにたまたま、ふとした思い付きで検索してたどり着いた場所なのに・・・こんな偶然ってあるんですね。驚きました。


別記事へのコメントですが、私も同じ理由で献血できません。たった2泊なのに~。あの時代の大学生の多くは卒業旅行でイギリスに行っているような・・・。

まぁぁぁ~~>れべっかさま

そうだったのね。さきほど、妹から写真付きで連絡をもらいました。今もきれいで…変わってないね…。懐かしかったです。あとはメールしますね←mapleは一応「楓」ね!(笑)

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